日常から野球が消えて早数ヶ月。本来なら一喜一憂に身悶えつつも幸せな日々を過ごしているはずのゴールデンウィークなのに、社会はすっかり非日常に支配されてしまった。いつ終わるとも知れない未知なる敵との戦いにいい加減うんざりしている方も少なくないだろう。
というわけで当ブログでは、少しでも読者の皆様に“日常”を感じて頂きたく、過去の中日ドラゴンズの試合の中からランダムにピックアップした1試合に焦点を当てて振り返ってみたいと思う。
題して「ある日のドラゴンズ」。誰も憶えていない、なんなら選手本人も憶えていないような、メモリアルでもなんでもない「ある日」の試合を通して、日常の尊さを噛みしめようではないか。
こどもの日の蛮行!T.ウッズ暴行事件
こどもの日の中日戦というと、オールドファン諸氏はどうしても2005年の“タイロン・ウッズ暴行事件”が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。たくさんの子供達が応援にきたナゴヤドームで、あろうことかマウンド上の藤井秀悟に対して右フックを浴びせて失神させたあの場面は、今なおドラゴンズの裏歴史に深く刻み込まれている。
よりによってこどもの日に起きてしまった、あるまじき蛮行。かつて“野球の華”とも言われた乱闘が徐々に減り、フェアプレーの精神がプロ野球界にも根付き始めた時期だったこともあり、ウッズが激しい非難にさらされるのは必至だった。しかし--いや、だからこそ。試合後、落合監督の口から出たのは謝罪ではなく、徹底して主砲を擁護する言葉だった。
神宮の(ウッズに死球を与えた)五十嵐、昨日の山部(の立浪への内角球)、荒木への(藤井の)攻めといい、そういうものがこれまでもずっとあった。そこへあの高さが来たら、彼らは怒るよ。
しかも両腕を広げるポーズを取ったら、それは挑発と取るよ。ジェスチャーひとつでいろんな誤解もされるんだ。ウッズも言っていたけど、警告でやめるつもりだったのが、あのポーズをしたから、挑発と受け止めたと。左投手が左打者に内角を投げることはある。けど、右打者にあの高さはほとんど来ないんだ。
現場としては、ウッズに制裁するつもりはない。これも野球。乱闘や暴力行為がおきるのも野球なんだ。連盟の処分があるなら早くしてほしい。できれば今日中にしてほしいくらいだ。でないとこっちの身動きがとれない。
落合監督試合後インタビュー(中日スポーツ 2005年5月6日付2面)
こどもの日への配慮とか、ヤクルトに対する謝罪が一切ない……オレ流が炸裂してやがる……
いま、加害者側の監督がこんなコメントしたら相当叩かれるだろうね
1999年5月5日vs横浜5回戦

ウッズの件はネタとして有名だしインパクトも強いが、当コーナーの「誰の記憶にも残っていない何気ない日常を切り取る」という趣旨には合わないので、別のシーズンのこどもの日も紹介しよう。
1999年。セ・リーグ新記録となる開幕11連勝を飾り、ド派手にロケットスタートをかました星野ドラゴンズだったが、その後は一進一退でなかなか貯金が増えずにいた。その一因として、リードオフマン李鍾範の不振が挙げられるだろう。
この試合の開始時点で打率.242。来日2年目、日本人投手のボールにも慣れたはずの“韓国のイチロー”だが、前年右肘に食らった死球の影響もあってか開幕から精彩を欠いていた。この日も3打席目まではいいところがなかったが、2点を追う7回1死満塁、カウント0-2から阿波野秀幸が投じた高め速球を逆らわずに右に運んだ打球は走者一掃の適時二塁打になった。今季の李は満塁になると手がつけられない。このヒットで満塁機は4の4。実に9打点を叩き出している。
それでも5打席立ってヒットはこの一本とあって李は「1安打ではね。塁に出てかき回すのがボクの仕事だから」とクールを装ったが、塁上で飛び出したガッツポーズこそが李の本心を物語っていた。
長男・政厚(ジョンフ)君が誕生して初めてのこどもの日は、韓国でも日本と同じく祝日だ。李や宣銅烈の所属する中日戦は韓国で全試合が中継されている。生まれたばかりの政厚君も、“風の子”と呼ばれる父親の勇姿をしっかりと目に焼き付けたはずだ。
ルーキー岩瀬、流れを離さぬ好投
佐伯貴弘、駒田徳広、ポゾ、ローズにホームランが飛び出したこの日のマシンガン打線。しかし試合に勝ったのは本塁打なしの中日だった。勝負を決めたのが李なら、つかんだ流れを離さなかったのは7回から2.1イニングをパーフェクトに抑えた岩瀬仁紀の好投の賜物であろう。
翌朝の中スポ紙面で鹿島忠氏はルーキー左腕の投球をこう分析している。
「狙われた球でしっかり牛耳っている。例えば8回裏。ローズに対してカウント1-3。一発狙いの局面でストレートを投げているにもかかわらず、右飛に。狙われても球威で抑え込んでしまっている」。
この時点で岩瀬は14試合目の登板。防御率も0.47まで向上し、はやくも不動のセットアッパーの地位を築きつつある。だが、その後歩むことになる長い道程からすれば序盤も序盤。まさかここから988試合も登板することになろうとは、誰も予想だにしなかっただろう。
それではまた、ある日どこかで。
1999.5.5○中日5-4横浜