ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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中日ドラゴンズを創った100人

 新型コロナの影響で野球関連のニュースも激減し、ブログを書くにもネタが無いという状況下。かと言って放置するのもイヤだし……。

 そんな折、ふと頭に浮かんだのが、2年ほど前にライオンズ系の有名ブロガー“もちたろうさん”が公開したのを拝見して以来、ずっとやりたいと思っていたこの企画だった。

 

note.com

 ひいき球団の歴史を紐解き、その発展に寄与した偉大な100人を選び、順位付けする--。ドラゴンズの歴史研究を主眼に置く当ブログのコンセプトとも一致するうえに、オリコンのCDランキングを楽しみにして育った世代の私にとって「順位付け」という作業は無意識的にテンションが上がるのだ。

 というわけで、誠に勝手ながら同企画のドラゴンズ版を作らせて頂きました。題して「中日ドラゴンズを創った100人」

 

 人選にあたって、極力個人的な思い入れを廃した客観的なものにすべく、選考段階から“ようやっとる座談会”のレギュラーメンバー3人(加賀一輝氏、yuya氏、yamadennis氏)に協力を要請。リストアップした175人の中から、投票制で100人に絞り込んだ。監修(順位付け、寸評執筆)は私が担当。

 「この人がこの順位はおかしい!」「この人が入ってないのはおかしい!」といった異論は少なからずあるかと思うが、どうぞ温かい目でお楽しみ頂ければ幸いである。

 なおドラフト年表記は、会議実施年ではなくルーキー年を採用させていただいた(例:石川昂弥 ○2020年 ×2019年)。

 

それじゃ、カウントダウン形式で一気に発表だ!

 

 

100〜81位

 

100位:根尾昂(2000年〜) 2019年ドラフト1位。指名時のフィーバーっぷりは間違いなく球団史上最高。苦戦しているものの、そのポテンシャルは誰もが認めるところ。50年後のこの企画では1位も狙える逸材。覚醒の時を待つのみ。

 

99位:井手峻(1944年〜) 1967年ドラフト2位(第2次)。中日史上唯一の東大出身選手だが、話題性だけでなく毎年100試合未満ながらコンスタントに出場。73年に放った生涯唯一のホームランが巨人戦での決勝弾。その後コーチ、編成、渉外等を経て球団代表を歴任。球団在籍47年(77年のみ一般企業勤務)は足木俊郎に次ぐ長さ。

 

98位:ジム・マーシャル(1931年〜) 1963年、「日本球界初の現役大リーガー」の触れ込みで入団。さすがの打棒は特に巨人戦で発揮された。在籍3年間すべてオールスター選出。また紳士的な人柄でナインにも愛され、81年には1軍総合コーチに就任。ケン・モッカの獲得を手引きするなど82年のリーグ優勝に貢献した。

 

97位:水木一郎(1948年〜) “アニキ”の愛称で知られるアニソン界の帝王。2002年に初めて「燃えよ! ドラゴンズ」の歌唱を務めて以来、一部を除いて新バージョンが出るたびに歌い続けている。ナゴヤドームで流れる球場合唱編はもちろんアニキによるもの。「燃えドラ」最多歌唱アーティスト。

 

96位:渋谷真(?) 中日スポーツ記者。2000年からドラ番一筋14年。14年からはデスク昇進。紙面コラム「龍の背に乗って」では卓越した観点と鋭い指摘が人気を博す。選手のみならず同業者からの信頼も厚く、東海ラジオの大澤広樹アナは「尊敬している」と語る。

 

95位:ハーバート・ノース(1910年〜不明) 1936年、日本球界初の助っ人としてハリス、高橋吉雄(日系)と共に来日。記念すべき球団の初勝利投手である。“十字火球”と形容された威力あるボールを放った反面、ひどいノーコンでシーズン防御率6.52と振るわなかった。外国人の恋人を作り、7月一杯で退団した。

 

94位:のもとけ(?) SNS時代の最強インフルエンサー。速報性が高く無駄のない情報発信力とユーモラスな表現の数々が支持され、フォロワーを増やし続けている。非公式ながら広報的な色合いが強く、氏のツイートに惹かれて中日ファンになった方もいるほど。

 

93位:石丸進一(1922〜1945年) 同じく名古屋軍の選手だった兄・藤吉の応召に伴って補充要員として入団。投手に転向した2年目に17勝を挙げると、翌1943年は30先発311.1イニングと投げまくり、戦前最後のノーヒットノーランを含む20勝を収めた。45年に自ら神風特攻隊に志願し、沖縄方面の米機動部隊を目指して出撃したきり還らぬ人となった。

 

92位:落合信子(1944年〜) 落合博満の妻。優柔不断な夫に代わって節目の決断を後押ししているそうで、03年オフの中日招聘の際には電話越しでGOサインを出した。ここで“NOサイン”を出していたら中日・落合監督は実現しなかっただろう。就任当初は研ナオコらと観戦にも訪れていた。

 

91位:吉村功(1941年〜) 1963年東海テレビ入社。長年、ドラゴンズ戦の実況を担当した。94年の10.8決戦や06年の山本昌のノーヒットノーランなど数多くの名試合を実況。中でも88年胴上げ直前の「郭はもう泣いています」、89年落合博満が巨人戦で逆転サヨナラ3ランを放った瞬間の「こ〜んな試合は今まで見たことない」のフレーズは有名。

 

90位:板東英二(1940年〜) 1959年入団。二桁勝利5度など一流の成績を残す一方で、商魂たくましく複数の副業を掛け持ちしながらの選手生活だった。引退後に芸能界で大ブレイク。多くの冠番組を持っていたが、税金逃れの発覚で全て打ち切りになった。近年、人気バラエティで本性を表して復活の兆し。

 

89位:小山武夫(1909〜2003年) 1946年入社。67年から81年まで球団オーナーを務めた。水原茂招聘、黒い霧事件、藤波行雄トレード拒否をはじめ数多くの歴史的瞬間に当事者として関わった。それまで4,5年が慣例だったオーナー職に14年間従事。現在に連なる球団の方向性を形づくった。

 

88位:アイク生原(1937〜1992年) 亜大の監督を経たのち、単身渡米。ドジャースの用具係から会長補佐にまで出世を果たす。1969年、米国留学した足木広報との出会いから中日との関係が始まり、88年には武者修行に訪れた山本昌にスクリューを伝授したことでも有名。“アイク”は愛称で、純日本人である。

 

87位:ルイス・フランシス(1976年〜) 2007年、ブルペン捕手兼通訳の肩書で入団。当初より流暢な日本語を操る将棋好きとして注目を集めた。気さくな性格でチームメイトや関係者からも愛されている。外国人選手の貴重な話し相手でもあり、ルイスなくしてドミニカンの活躍なしとさえ言えよう。

 

86位:兵頭洋二(1942〜2004年) 1965年、名古屋今池で中華料理店「ピカイチ」創業。自宅が近かった星野仙一とは現役時代から家族ぐるみの付き合いを続け、いつしか店も中日関係者やファンの溜まり場になった。04年死去。葬儀にはサザンの桑田佳祐をはじめ、著名人からの花が百基以上も並んだ。

 

85位:島野育夫(1944〜2007年) 1963年入団。選手としては2流止まりだが、指導者として星野監督の右腕として生涯を通じて運命を共にした。95年の2軍監督就任は、翌年の復帰が確実視されていた星野のための下地作りと言われたほど。感情的な星野と選手との間を取り持つ緩衝材的な役割を果たした。

 

84位:中田宗男(1957年〜) 1979年ドラフト外。83年引退後にスカウト転身。主に関西地区で立浪和義や今中慎二を担当した。03年にスカウト部長就任。巧打者タイプの高校生や制球力重視の素材型にこだわったスカウティングが特徴。姓の読みは「なかた」ではなく「なかだ」。

 

83位:英智(1976年〜) 1998年ドラフト4位。守備、走塁のスペシャリストとして幾度もチームを救った。04年の日本シリーズ初戦で痛感のエラーを犯した際にも「あいつが取れなきゃ誰も取れない」と落合監督に言わしめるほどの厚い信頼があった。芸術家気質で独特のヒーローインタビューも面白かった。

 

82位:高代延博(1954年〜) 1999年から2年間、04年から5年間コーチを務めた。黄金期を下支えした仕事人。特に三塁コーチャーとしての判断力が優れており、06年はシーズン通しての本塁噴死がわずか1個だった。ノック技術も高く、鉄壁の内野陣を築きあげる原動力になった。

 

81位:坪内道典(1914〜1997年) 職業野球黎明期から活躍した“野球名人”。初の1000安打を成し遂げた翌年(1949年)に中日移籍。52年から2年間監督を務め、79年からは中日選手寮の寮長も歴任した。「決して天才ではなく、練習また練習、努力を積み重ねた人物」と当時の記者は評している。

 

80〜61位

 

80位:杉浦清(1914〜1987年) 終戦間もない1946年に32歳で入団。いきなり兼任監督の大役を任されたが“赤嶺旋風”に巻き込まれて苦労した。引退後は朗々とした解説で人気を博した後、63年に「六大学出身の監督を置きたい」との球団の意向を受けて監督再復帰するも、2年持たずに休養となった。

 

79位:小山裕史(1956年〜) 1981年にジム「ワールドウィング」を鳥取に開業。94年に考案・発表した“初動負荷理論”は多くのアスリートに支持され、特に山本昌は早い段階で取り入れて選手寿命の大幅延命に成功した。今年から入会した根尾昂を「早くミスタードラゴンズになって欲しい」と絶賛。

 

78位:法元英明(1935年〜) 1956年入団。選手として大成はならなかったが、69年からは転身したスカウト業で手腕を発揮。選手の家族や恩人を懐柔する手法で三沢淳、小松辰雄など入団に難色を示す選手の獲得を実現した。法元の世話を受けたOBでつくる「法元会」には錚々たる顔ぶれが揃う。

 

77位:サトウハチロー(1903〜1973年) 詩人、作詞家。代表作に「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」等。著名人ファンの元祖であり、1950年には球団歌「ドラゴンズの歌」を作詞(補作)。54年リーグ優勝の際には中スポ紙上で「天知俊一に捧げる詩」と題した長文詩を発表。また後援会の会長も務めた。

 

76位:村松幸雄(1920〜1944年) 1939年入団。2年目に西沢道夫よりも17日早く球団初となる20勝を挙げた。翌年は210.2回を投げて防御率0.98を記録。黎明期のエースとして活躍したが、42年に応召され戦死。当時としては珍しい180センチの体躯には、エースナンバー「18」がさぞ似合っていたことだろう。

 

75位:中村紀洋(1973年〜) 2007年キャンプ中に育成契約。開幕から6番サードに定着し、勝負強い打撃で幾度となくチームを救った。日本シリーズではMVP受賞の活躍で大貢献。インタビューでの涙が印象深い。生涯竜を宣言したはずの翌年オフに突然FAで去った。その生き様は、まさに暴れん坊将軍。

 

74位:山田久志(1948年〜) 1999年、星野監督の熱烈な口説きを受けて入閣。岩瀬仁紀、宣銅烈など強力なリリーフ陣を擁した投手王国を築く。02年には監督就任。しかし星野の阪神入りで空中分解状態のフロントを懐柔できず志半ばで解任された。就任会見での第一声がかつての星野と同じ「覚悟しろ」だった事はあまり知られていない。

 

73位:峰竜太(1952年〜) 芸能界一の中日ファンとして知られ、1988年の番組当初から司会を務める「ドラHOT」は途中、情報番組のコーナー化や休止期間を挟みながら現在も放送中。数多の著名人ファンのなかでもその知名度・貢献度は群を抜くが、全国区ではあまりその側面は見せない。

 

72位:ジーン・マーチン(1947年〜) 1974年入団。打撃は粗いが長打が魅力。いわゆる3A出身の助っ人らしい助っ人だが、根がマジメで日本流の練習にも真剣に取り組んだ事から覚醒。4番として20年ぶりのリーグ優勝に貢献すると76年には40ホーマーを記録。在籍5年間で30本を割ったのは一度だけ。ハゲ頭がトレードマークだった。

 

71位:くらはしかん(1961年〜) 愛知県江南市在住の漫画家。1992年から中日スポーツ紙上で4コマ「おれたちゃドラゴンズ」連載。その時々の中日関連のトピックスを扱っているため、歴史資料的な価値も高い。徹底してデフォルメした似顔絵はよく似ている。

 

70位:近藤真一(1968年〜) 1987年ドラフト1位。なんといってもこの年の8月9日、戦慄のプロ初登板ノーヒットノーランは球史に残る大偉業。その2週間後にも1安打完封を収めるなど大器を予感させたが故障で短命に終わった。引退後はスカウトやコーチ職を歴任。今日に至るまで中日球団に在籍し続けている。

 

69位:加藤巳一郎(1917〜1995年) 1938年に前身の新愛知新聞社に入社。81年から就任した球団オーナー時代は星野監督に惚れ込んでトレード資金等を惜しげもなく注ぎ込んだ。ナゴヤドーム建設では陣頭指揮にあたるなど尽力。しかし95年6月、高木監督の辞任発表と同日にドームの完成を見ずして死去した。

 

68位:ダヤン・ビシエド(1989年〜) 2016年入団。森繁和が流した巧みな偽情報により他球団に邪魔されずに獲得できた。安定感のある打撃はもちろんのこと、1年の大半を家族と名古屋で暮らすほどの中日愛は助っ人としては異例。高額オファーにも目をくれず18年オフに3年契約を結び、サボりがちな複数年1年目もしっかり働いた。球団史上屈指の愛され外国人。

 

67位:宣銅烈(1963年〜) 1996年入団。巨人に決まりかけていたところを伊藤修代表が直接韓国に出向いて契約にこぎつけた。韓国の英雄も初年度は苦戦したが、星野監督の「国ではなく自分のために投げなさい」という言葉で目覚め、2年目からは抑えとして勝利を守り続けた。99年リーグ優勝の胴上げ投手。

 

66位:アロンゾ・パウエル(1964年〜) 1992年、故障したライアルの代役で途中入団し、規定未達ながら3割をマーク。94年からは3年連続首位打者を獲得したが、テキサスヒットが多く、チャンスには弱かったため打点は毎年70前後に留まった。紳士的な性格でも知られるナイスガイ。今年からコーチとして23年ぶりの中日復帰。

 

65位:宮田征典(1939〜2006年) 1998年、投壊状態のブルペンを立て直すべく入閣。野口茂樹、川上憲伸らを育てあげ、わずか1年でリーグ最強の投手王国を築いた。だが持病を理由に1年限りで退団。なぜか翌年は巨人のベンチにいた。晩年は「スポスタ」のゲスト解説者として頻繁に中日を取材。特に中里篤史を可愛がった。

 

64位:ドアラ(1994年〜) 1994年に投入された球団初のマスコット。東山動物園のコアラがモチーフ。ドーム開場と共に風貌もリニューアルされたが、球団は一貫して新キャラ・シャオロンを推し続けた。だが07年、動画サイトに投稿された姿から火がつき大ブレイク。球界はおろか日本で一番有名なマスコットとして人気を博している。

 

63位:与田剛(1965年〜) 1990年ドラフト1位。関東志望も星野監督の男気に惚れて中日入り。1年目の開幕戦、いきなり11回表無死1,3塁の大ピンチに起用され、150キロを連発して凌いだ投球は語り草。だが2年目以降は怪我に苦しんだ。19年に監督就任。モチベーター型監督として優勝を目指す。

 

62位:ケン・モッカ(1950年〜) 82年、総合コーチのマーシャルが2年かけて口説き落として入団。広角打法を駆使して安打を量産し、リーグ優勝に貢献した。モッカといえば枕詞のように語られるのが紳士的な人柄。チームメイトの信頼も厚く、引退試合での胴上げは有名。土木工学修士の称号を持つインテリでもある。

 

61位:本多逸郎(1931〜2005年) 1950年入団。前年オフの入団テストに合格するも球団の不手際で不合格に。しかし美人な母親が杉浦監督に泣きつき、特例として入団を許可された。愛称は“パラちゃん”。球史に残る美男子で女性人気ナンバーワン。54年の日本シリーズで好守を連発。杉下茂に「本多なくして日本一は成らなかった」と言わしめた。

 

60〜41位

 

60位:関川浩一(1969年〜) 1998年に阪神からトレード移籍。ヒゲとヘッドスライディングで一躍人気者になると、99年には「影のMVP」といわれる活躍でリーグ優勝に貢献。チャンスに滅法強く、闘志を前面に出したプレースタイルは星野監督好みでもあった。ビールかけの直前にヒゲを剃り落としてしまったのは痛恨のミスだったと思う。

 

59位:森野将彦(1978年〜) 1997年ドラフト2位。初スタメンでホームランを記録するなど将来を嘱望されたが、初めて規定打席に到達したのは10年目と遅咲き。背番号が頻繁に変わったことでも知られる。山本昌がノーヒットノーランを達成した試合でエラーを犯し、記録達成を祝う輪の中でただ一人顔面蒼白だった。

 

58位:牛島和彦(1961年〜) 1980年ドラフト1位。フォークと強心臓を武器に2年目に台頭すると、82年には53登板、防御率1.40の活躍でリーグ優勝に貢献した。しかし86年オフに落合博満とのトレード要員となり移籍。引退後はCBC解説者として再び名古屋に拠点を置き、丁寧で聞き取りやすい解説が人気を博した。

 

57位:山井大介(1978年〜) 2002年ドラフト6位。04年に「試合前のじゃんけんに勝った」ため先発した広島戦で初完封を記録。さらに西武との日本シリーズでも勝利を収めて一躍その名を知らしめた。若いころは怪我がちでなかなかローテ定着できず、いわゆる変則完全試合を達成した翌年(08年)も右肘痛でほぼ1年間を棒に振った。実妹が漫才師・オール巨人の息子と結婚したため、巨人師匠とは親戚関係にあたる。

 

56位:中尾孝義(1956年〜) 1981年ドラフト1位。木俣達彦はキャンプで中尾の若々しいプレーを見て引き際を悟ったという。初年度にいきなりその木俣から正捕手の座を奪い取ると、2年目には18ホーマーを放つなど打撃も開花しリーグ優勝に貢献。それまでの捕手のイメージを覆す細身でスタイリッシュなルックスも人気を呼び、シーズンMVP、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞を総ナメにした。

 

55位:小川健太郎(1934〜1995年) 1964年に30歳で入団。アンダースローから繰り出す多彩な変化球を駆使し、67年には29勝を挙げて沢村賞を受賞した。しかし元々のギャンブル依存が災いし、黒い霧事件に関与して永久追放を受けた。引退後に経営したスナックは熱心な中日ファンのたまり場になったが、ツケ払いの回収を怠り数年で閉業。短いキャリアで5年連続二桁勝利を収めるなど球団史に残る名エース。

 

54位:山本正之(1951年〜) 愛知県出身のシンガーソングライター。1974年に銭湯で浮かんだという歌詞とメロディをもとにした「燃えよ! ドラゴンズ」のデモテープを板東英二のラジオ番組宛に送り、採用。レコード化されて40万枚を超える大ヒットになった。その後も新バージョンが登場し続け、“名古屋の国歌”とまで呼ばれる。

 

53位:大島洋平(1985年〜) 2010年ドラフト5位。下位指名も1年目からレギュラー定着。毎年一定の成績を残す安定感と丈夫さ、堅実な守備、走塁はまさにプロ。2度のFA取得はいずれも中日愛で残留を決め、ファンを歓喜させた。現役選手では“ミスタードラゴンズ”襲名に最も近い男。

 

52位:野口明(1917〜1996年) 中京商業の名捕手として戦前から名を馳せ、1949年に移籍したプロ4球団めの中日で日本一に貢献。翌55年には天知監督の電撃辞任を受けて兼任監督に就任した。42年には大洋軍の捕手として名古屋軍相手にプロ試合の世界最長記録である延長28回を経験した。

 

51位:若狭敬一(1975年〜) 1998年CBC入社。06年に「サンドラ」の司会に抜擢されると親しみやすいキャラとポップなトーク術でたちまち人気者になった。同番組での14年連続司会は大先輩である久野誠の13年半を抜いて歴代最長。まだ44歳という年齢から今後の活躍も期待される、名古屋を代表するエースアナウンサー。

 

50位:近藤貞雄(1925〜2006年) 1948年に巨人から移籍。進駐軍のジープにはねられた影響で右手に後遺症が残ったが、3本指で投げる独特の球種(パーム)を開発した。引退後は3期18年間にわたり投手コーチを務め、81年に監督歴任。翌年、野武士軍団を率いてリーグ優勝を収めた。投手分業制を日本球界に取り入れた理論派として知られる一方、「退場が怖くて監督ができるか!」をモットーとする激情家の一面も。

 

49位:松本幸行(1947年〜) 1970年ドラフト4位。投球間隔の短い「ちぎっては投げ」で有名。74年に球団3人目となる左腕での20勝を挙げ優勝に貢献。練習嫌いで人を食ったような言動は、さながら今中慎二の先代といったところか。何かと派手な星野仙一とは対照的に引退後は球界から一切身をひいた。孤高の技巧派。

 

48位:中村武志(1967年〜) 1985年ドラフト1位。星野監督の猛烈なしごきに耐え抜いて正捕手の座を掴み、2度のリーグ優勝に貢献。パンチ力もあり、91年の同点満塁弾&サヨナラ弾のダブル打ちがハイライト。01年オフに山田監督からの「谷繁を獲る。強力な2番手として助けてくれ」との申し出を断って横浜に移籍。

 

47位:久野誠(1952年〜) 1975年中部日本放送(CBC)入社。79年の初実況以来、同局の名物アナとして数々の名試合に放送席から携わった。「サンドラ」の初代司会者であり、また88年をはじめ複数の「燃えよドラゴンズ」の歌唱を担当した。星野監督と親交が厚く、一部ではアンチ落合と囁かれることもあったが全くの憶測であることを強調しておく。

 

46位:大豊泰昭(1963年〜) 1988年ドラフト2位。王貞治に憧れて台湾から20歳のときに来日。徐々に成績を上げ、94年に一本足打法を取り入れて覚醒。本塁打、打点の二冠王に輝いた。引退後は名古屋、岐阜で中華料理店を経営。店頭に出て気さくにファンサービスにも応じてくれたが、15年に早すぎる別れを迎えた。

 

45位:国枝利通(1920〜2011年) 1948年入団。1年目に受けた生死に関わる頭部死球の影響で選手生活は7年と短命。しかし後遺症によりベースから離れて立つ右打ちを習得し、主に二塁手として活躍した。引退後は東海テレビに勤務し、専属第1号として解説を務めた。59年に県岐阜商の後輩である高木守道をスカウト。また97年にはナゴヤドームの初代取締役を歴任するなど中日を下支えした。

 

44位:杉山虎之助(1904〜1949年)  1947年、職業野球連盟に赤嶺昌志代表が中部日本新聞社としてチーム申請をおこなった際の本社オーナー。名前をもじった「タイガース」は既に取られていたため、干支の辰年から「ドラゴンズ」の名が付いた。杉山が子年や卯年だったらと考えるとゾッとする。

 

43位:石川克彦(1933年〜) 1952年入団。高卒2年目に早くも18勝を収め、杉下に次ぐ2番手の座を射止める。54年は21勝で日本一に貢献。このうち20勝が下位の国鉄、広島、大洋から挙げたもの。巨人、阪神に杉下をぶつけ、石川が確実に下位を仕留める。天知監督の采配の勝利である。5年目の春先、犬の散歩中に右肩を負傷。二度と輝きは戻らなかった。

 

42位:水原茂(1909〜1982年) 1969年から3年間チームを率いたプロ野球初期の名将。黒い霧事件に見舞われながらも江藤慎一の放出などチーム改革を断行し、後のリーグ優勝の礎を築いた。その変遷は当ブログ「水原中日 激動の3年間」に詳しい。

 

41位:服部受弘(1920〜1991年) 1939年入団。戦前は強肩捕手として活躍したが、復員後の46年に外野フライをホームランだと思い込んで目を離した事に竹内愛一監督が激怒し、捕手失格と投手転向が決まる。当時は珍しかったスライダーを武器に通算112勝。二塁以外の全ポジションを守る多刀流も、本人は「一つのポジションを極めたほうがいい。私は変わりダネ」と懐疑的に語る。

 

40〜21位

 

40位:足木敏郎(1934年〜) 1953年入団。わずか1年で引退後、トレーナー、マネージャー、広報、渉外と歴任し、13年の退職まで61年間に渡り球団在籍。中日の表も裏も知り尽くす、まさしく生き字引。特に渉外として80人以上の外国人獲得に携わった。

 

39位:杉山悟(1926〜2009年) 1948年入団。愛称の“デカちゃん”は体の大きさから当時の杉浦監督が付けたもの。見た目通りの豪快な打撃で本塁打王、三振王をそれぞれ獲得した。飲む、打つ、買うとは無縁の野球一途で、スコアラーのいない時代に新聞記者に配球を確認させるなど研究熱心さは随一だったという。

 

38位:野口茂樹(1974年〜) 1993年ドラフト3位。98年に宮田征典コーチの指導で制球難を克服すると99年には19勝を収めてMVPを受賞した。数年にわたりエースと呼ぶにふさわしい投球を見せたが、どんなに勝っても「中村さんのおかげです」と言い続ける謙虚な性格と朴訥な外見から、人気面では川上憲伸の後塵を拝した。

 

37位:吉見一起(1984年〜) 2008年ドラフト1位(大社)。針の穴を通すコントロールを武器に星野仙一以来となる5年連続二桁勝利を収めた、落合政権後期のエース。それ以降は怪我に苦しみながらも試行錯誤を繰り返しており、そのストイックさと研究熱心さから将来の指導者候補に推す声もある。

 

36位:今中慎二(1971年〜) 1989年ドラフト1位。表情の変わらない淡々とした投げっぷりと大きく曲がるスローカーブで一斉を風靡した名左腕。93年に甲子園で迎えた開幕戦では開場を待つ阪神ファンに「きょう今中やろ?阪神の負け」と言わしめるほどの存在感を誇った。96年に負った怪我から復活できずに01年引退。まだ30歳の若さだった。

 

35位:鈴木孝政(1954年〜) 1973年ドラフト1位。明大への進学を蹴って中日に入団し、2年めの74年には早くも日本シリーズに登板。浮き沈みを経験した後、本格的に先発転向した84年には16勝を収めカムバック賞を受賞した。人の良さが災いして落合政権時にはシーズン途中でヘッドコーチ職を外されたが、恨み言は一切いわず男を上げた。

 

34位:江藤慎一(1937〜2008年) 1959年入団。1年目から6年連続全試合出場。64,65年には首位打者を獲得して王貞治の三冠を阻んだ。不動の4番として君臨したが、69年限りで諸事情につき退団。現役中に副業で自動車整備工場、不動産業を経営するなど野心に溢れていた。

 

33位:田尾安志(1954年〜) 1976年ドラフト1位。甘いマスクと明るい性格で人気を博した当時を代表するスター選手。82年から3年連続でリーグ最多安打を記録するなど一発もある安打製造機として上位打線を牽引した。85年1月に突然西武にトレード。その経緯は当ブログの特集「あれから35年 田尾トレードを読み解く」に詳しい。

 

32位:山﨑武司(1968年〜) 1987年ドラフト2位。愛知が生んだジャイアン。入団時から打棒を期待されるも安打と同じ数だけ三振を喫する荒削りさを克服できず、96年に苦節10年で大成。99年には奇跡のX字サヨナラ弾で優勝に貢献した。その後紆余曲折を経て12年に中日復帰。通算403ホーマーは愛知県出身選手の最多記録。

 

31位:森繁和(1954年〜) 2004年に投手コーチ就任。落合監督から全幅の信頼を置かれ、「04年開幕戦の先発投手」以外の投手に関する全権を一任された。また外国人の目利きに長け、ブランコやネルソン、ビシエドなど渉外担当として数多くの優良助っ人獲得に尽力した。17年からの監督時代にはルーキーの京田陽太を積極起用するなど次代をにらんだ舵取りで現在の基礎を築いた。

 

30位:和田一浩(1972年〜) 2008年に西武からFA移籍。既に盛りは過ぎたかに思われていたが、10年に再覚醒してMVPを獲得。FA史上屈指の成功例となった。幼少期から大の中日ファンで、落合GMから戦力外を告げられると迷わず引退を決意。「この8年は夢のような時間だった」という引退会見の言葉はファンに感動を生んだ。

 

29位:谷繁元信(1970年〜) 2002年に横浜からFA移籍。強力なリーダーシップを発揮して黄金期の投手陣を牽引した。14年オフにはプレイングマネージャーに就任するも、チームをBクラスから救い出すことはできなかった。14年間も中日に貢献しながら最後はけんか別れのような形になったのは残念だ。絵に描いたような「ガハハ」笑いが特徴的。

 

28位:小松辰雄(1959年〜) 1978年ドラフト2位。1位指名でなかった事を不服として駒大進学が決まりかけたが、法元スカウトの説得を受けて入団。81年の先発転向を機に真価を発揮し、2度の最多勝を飾るなど80年代のエースとして活躍した。面倒見がよく“親分”の愛称で慕われたが、コーチ時代は情を捨てきれず役割に徹しきれなかった。

 

27位:郭源治(1956年〜) 1981年、台湾陸軍から移籍。先発、抑え、先発と幾度の配置転換にも適応して中日一筋を貫いた。“踊る守護神”と称された派手なガッツポーズがトレードマーク。“源治”の名は父親が懇意にしていた特攻隊員から貰ったもので、「だからボク、投げるときは体当たりのつもりで向かうのヨ」。

 

26位:浅尾拓也(1984年〜) 2007年ドラフト3位(大社)。知多半島の無名大学からやって来た細腕が球団史に残る名選手になった。10,11年には70試合以上に登板して連覇に貢献。酷使で壊れた代表例として語られることが多いが本人は否定。球界屈指のイケメンと圧倒的な安定感を誇る投球とのギャップは女性のみならず男性をも虜にした。

 

25位:中利夫(1936年〜) 1955年入団。攻走守三拍子そろった小さな大打者。60年に球団初の50盗塁。元々はプルヒッターだったが西沢監督の指導のもと流し打ちを習得。67年に首位打者を獲得した。78年には監督に就任し、小松辰雄、牛島和彦、宇野勝といった若手を積極起用して野武士軍団の下地を作った。

 

24位:井端弘和(1975年〜) 1998年ドラフト5位。小柄ながら華麗な守備で3年目にレギュラーを奪うと04年からは落合野球の象徴的存在として黄金期に多大な貢献を果たした。一時は中日と絶縁したかに思われたが、18年頃から名古屋で活動再開。コーチとしてのアライバコンビ復活という夢は、近い将来叶いそうだ。

 

23位:大島康徳(1950年〜) 1969年ドラフト3位。水原監督にパンチ力を見初められて打者転向し、1年目から2軍で4番を任されるなど英才教育を受けて3年目にブレイク。OPS9割台を4度マークするなど打棒を振るった。明るく人懐っこい性格で人気を博し、現在も闘病の傍ら、たびたびメディアに登場しては巧みな話術で楽しませてくれている。

 

22位:荒木雅博(1977年〜) 1996年ドラフト1位。入団挨拶の際に星野監督に灰皿を投げつけられるほど当初の期待値は低かったが、努力に努力を重ねて2000安打を放つまでに成長した。走塁と守備センスに長け、井端弘和と形成した二遊間は史上屈指の鉄壁を誇った。将来の監督候補とも目される人格者。

 

21位:宇野勝(1958年〜) 1977年ドラフト3位。珍プレイとは裏腹に80年代を代表するスラッガーとして活躍した。85年には遊撃手として史上初の40ホーマーを記録。中日で放った334ホーマーは球団最多。立浪和義の入団に際してコンバートを受け入れた逸話が有名だが、実は86年にも鈴木康友の加入に伴いサードにコンバートさせられている。

 

20〜11位

 

20位:権藤博(1938年〜) 1961年に入団すると驚異のペースで投げ続けて69登板429.1回44先発32完投35勝という異常な成績を残した。その酷使っぷりを表した「権藤権藤雨権藤」の詩はあまりにも有名。指導者になってからは試合中いつもベンチで頬に手を当てて立っていた。

 

19位:タイロン・ウッズ(1969年〜) 2005年に横浜から移籍。規格外のパワーで来日から6年連続30ホーマーを記録した。06年に残した47ホーマー、144打点はいずれも球団記録。特に巨人戦に強く、東京ドームのライトスタンド看板に楽々当てる驚異の弾道は巨人ファンを震え上がらせた。ヒーローインタビューで連発する「I know」も懐かしい、球団史上最強の助っ人。

 

18位:白井文吾(1928年〜) 「ようやっとる」の生みの親。2000年から長きにわたってオーナー職を務めた。在任20年は歴代最長。終盤は失政も見受けられたが、周囲の反対を押し切って落合博満を招聘、黄金期を築いたのは間違いなく偉大な功績である。現在、名誉オーナー歴任。

 

17位:福留孝介(1977年〜) 1999年ドラフト1位。内野失格の烙印を押され外野手に転向すると才能が覚醒。02年は松井秀喜の三冠を阻んで首位打者に、06年には3割30本100打点をクリアしてMVPを獲得した。攻走守すべてが一級品で、総合力では中日史上最強との呼び声も高い。プロ意識が強すぎるあまり、毎年のように揉める契約更改も風物詩だった。

 

16位:ウォーリー与那嶺(1926〜2011年) 選手、コーチとして1960年代のほとんどを中日で過ごしたが、有名なのは水原茂の後を継いで就任した72年からの監督業だろう。74年に巨人のV10を阻止。片言の日本語と気さくな人柄から「ウォーリー」の愛称で親しまれた。在任連続6年は当時の球団最長。

 

15位:谷沢健一(1947年〜) 1970年ドラフト1位。早大での活躍そのままに1年目からレギュラー定着。78年にアキレス腱痛が悪化し選手生命の危機に瀕したが、藁にもすがる思いで始めた日本酒マッサージが効いて奇跡の復活を遂げた。たびたび監督候補に挙がるも結局叶わなかったのは中日七不思議の1つといえよう。

 

14位:川上憲伸(1975年〜) 1998年ドラフト1位。1年目から新人王を獲得する活躍。以来、ここ一番に滅法強いエースとして黄金期を支えた。五月人形のようなたくましい顔と派手なガッツポーズがトレードマークの画になる投手だった。現役時代はストイックで無骨なイメージが強かったが、引退後は芸人顔負けのトークで多彩に活躍。特に実況若狭、解説川上のコンビは絶品。

 

13位:木俣達彦(1944年〜) 1964年入団。高卒2年目に早くも正捕手の座を掴むと、69年にはセ・リーグの捕手では初の30ホーマーを記録。強打のマサカリ打法で一時代を築いた。「次期監督は星野か木俣か」と囁かれるほど有力な地位を得るが、周知の通りのお茶目な性格で出世争いからは脱落。解説者としてその魅力を存分に発揮し、昨年引退した。

 

12位:西沢道夫(1921〜1977年) 球団創設間もない1937年に入団。54年の初優勝に4番で貢献し、65年からは監督歴任。ドラゴンズの初期30年を代表する活躍ぶりは、まさしく“初代ミスタードラゴンズ”にふさわしい。投手で40年に20勝。さらに打者で49年に記録した46ホーマー、135打点は共にT.ウッズに抜かれるまで長らく球団記録だった。愛称は当時の巨漢力士・出羽ヶ嶽文治郎に由来して“ブンちゃん”。

 

11位:岩瀬仁紀(1974年〜) 1999年ドラフト2位。15年連続50試合登板、通算1002試合登板はアンタッチャブルレコード。29歳から転向したクローザーとしても歴代最多の407セーブを記録し名球界入り。素朴な人柄であまり風格を感じさせるタイプではないが、中日どころかプロ野球の歴史に燦然と輝く正真正銘のレジェンドである。

 

10〜6位

 

10位:立浪和義(1969年〜) 1988年ドラフト1位。1年目から遊撃のレギュラーを掴むと、甘いマスクも相まって一躍スター選手の仲間入りを果たす。通算成績では野手4部門(試合、安打、二塁打、打点)で球団史上トップに立つなど巧打者の完成形ともいえる、“3代目ミスタードラゴンズ”。PL学園仕込みの礼節正しさには定評がある。

 

9位:高木守道(1941〜2020年) 1960年入団。無口ながら人一倍の負けん気を持つ“2代目ミスタードラゴンズ”。実働21年間、球史を代表する二塁手の一人。監督として10.8を戦ったことでも知られる。相当な健啖家で、番記者や関係者たちも「とにかく肉をよく食べていた」という印象を生前の思い出としてこぞって挙げた。

 

8位:杉下茂(1925年〜) 旧帝商業学校時代の監督だった天知俊一の手引きにより明大から1949年入団。2度の30勝を含む9年連続二桁勝利は球団記録。54年の日本シリーズでは4勝のうち3勝を挙げる大活躍で同シリーズのMVPに輝いた。中日で挙げた211勝は山本昌に抜かれるまで球団記録だったが、通算勝利が215なのは最晩年にコーチ兼任で移籍した大毎での4勝が含まれているため。2度務めた監督業はいずれも短命に終わった。

 

7位:山本昌(1965年〜) 1984年ドラフト5位。藤王康晴の影に隠れた目立たない存在だったが、88年の米国留学を契機に急成長。代名詞の魔球スクリューを武器に積み重ねた通算219勝は球団史上最多。歴代最年長の50歳で引退。まさしく“ワシが育てた”選手の最高峰。趣味人でも知られ、球界でいち早く個人ホームページを自作、15年まで運営していた。

 

6位:赤嶺昌志(1896〜1963年) 名古屋新聞社に勤めていた縁から球界に関わるようになり、1942年名古屋軍の理事に就任。新聞統制令によりやむ無く中日新聞社の手を離れた名古屋軍を救うべく、理研傘下に収めて「産業」として球団活動をつなぎ止めた。“赤嶺旋風”と称される一連の選手大量退団の首謀者として語られがちだが、赤嶺の尽力がなければ戦局の悪化と共に球団が消滅していた可能性が高い。

 

5〜1位

 

5位:大島一郎(1903〜1985年) 初代オーナー。戦後、名古屋軍あらため中部日本としてチームが再興した際に、まだ球団を持つ余裕のなかった本社に代わって個人資産から経営費を捻出した。このとき大島が援助していなければ、チームは中日新聞社の手を離れ、全く違った運命を辿っていたのかもしれない。

 

4位:落合博満(1953年〜) 1987年に“世紀のトレード”で中日入り。打者、監督、GMとして4年代に跨って球団に影響を及ぼした。飄々とした受け答えが特徴的だが、森野将彦曰く「あんなによく喋る監督はいない」とのこと。バラエティ番組に好んで出演するなどひょうきんな一面も持つ。

 

3位:田中斉(1897〜1966年) 初代球団代表。新愛知新聞社の重役だった田中は、正力松太郎の職業野球構想に賛同して名古屋軍創設に尽力。1936年1月に旗揚げすると、すぐさま外国人3選手を獲得。同年冬には育成の重要性を説いて入団テストを実施し、15歳の西沢道夫が入団した。明大出身で、中日が同大学と関係が深いのも根幹には田中の存在あり。

 

2位:星野仙一(1947〜2018年) 1969年に明大からドラ1で入団。以来30年以上にわたり中日の“顔”として君臨。鉄拳を厭わぬ猛烈な熱血漢っぷりが有名だが、一方で時世を読んで手法を正すクレバーさも併せ持つ。稀代の球界政治家としてのエピソードも数知れず。生涯を野球に捧げた球史に残る“燃える男”。

 

1位:天知俊一(1903〜1976年) 戦前は六大学野球、中等学校野球の名審判として活躍。戦後、旧帝商業学校の監督を経て1949年に中日監督に就任。52年総監督を経て54年に主力選手たちの懇願を受けて監督復帰。球団史上初の日本一へと導いた。57年に監督再々復帰。3次政権まで率いたのは球団史上、天知が唯一。まさしく初期ドラゴンズの礎を創った偉人。

 

あとがき

 

 以上、長々とお付き合い頂きありがとうございました。100人×約150文字の寸評が思いの外しんどく、ライオンズ関係者210人分もの寸評を書き上げたもちたろう様の偉大さを実感いたしました。

 色々とツッコミどころはあるかと存じますが、何とぞご容赦くださいませ。