ちうにちを考える

中日ドラゴンズを浅く薄く考えます

ドラゴンズ平成10大ニュース

 

平成も残すところラスト5日。各媒体で平成を振り返る系の企画が盛り上がりを見せる中、当ブログも平成という時代を切り口にしてドラゴンズ31年史をまとめてみた。

第1弾は独断と偏見で選ぶドラゴンズ平成10大ニュース。実に様々な出来事があった激動の31年間、トップテンに選ばれたのは果たしてー?

 

どんなニュースがランクインするのか。予想しながら読み進めると楽しいぞ!

 

どうせろくでもないランキングなんだろ……

 

 

10位  開幕11連勝で11年ぶりV (平成11年)

 

1998年、終盤まで横浜との激しい優勝争いを繰り広げながら9月の直接対決で7連敗を喫して苦杯を飲んだ星野ドラゴンズ。しかし秋のドラフトで福留孝介と岩瀬仁紀を獲得し、新投手コーチに山田久志を迎えて臨んだ'99年シーズンは、開幕から投打の歯車が噛み合い開幕11連勝というロケットスタートに成功する。

「これで優勝できなければ切腹モノだ」。星野の覚悟はチームに乗り移り、途中もたつきながらも連勝に次ぐ連勝を重ね、遂に9月30日、神宮の夜空に闘将星野が舞ったのである。

 

しかし日本シリーズはダイエーに惨敗。やはりリーグ優勝決定日に一塁守備で走者と交錯し、骨折離脱した山﨑武司の不在が痛すぎた

 

代わりにDHに入ったのが神野純一と益田大介だからね。レギュラーと控えの実力差が激しくて、チームの層自体は決して厚くなかったんだ

 

補足エピソード

この反省を生かして打力強化のためにバリバリのメジャーリーガー・デヴィット・ニルソン(通称ディンゴ)を獲得した星野ドラゴンズだったが、思惑とは裏腹に低迷の一途を辿ったのである。

 

 

9位  星野仙一ドラゴンズと離別(平成13年)

 

ドラゴンズが誇る大スター・星野仙一が2001年のシーズン限りを持って勇退することになった。シーズン成績は5位。就任6年目というタイミング的にも潮時だったのかもしれない。

かくしてナゴヤドーム最終戦のセレモニーで「私ほど名古屋に愛された男はいないと自負しております!」と叫び、ドラゴンズのユニフォームを脱いだ星野は、わずか2ヶ月後にタテジマに着替えて「このユニフォームを着るのが夢やったんや!」と世紀の大転換を果たしたのである。

 

ついでに島野育夫ヘッドコーチまで連れてったもんだから、たまったもんじゃない

 

ぼう然と立ちすくむしかないドラゴンズには後ろ盾を失くした山田新監督がポツンと遺されたんだ

 

補足エピソード

可哀相な山田監督は、3年契約の2年目、シーズン終了間際の9月半ばに突然クビを宣告されてしまう。退任会見で口にした「なぜなんだ」という言葉は偽りなき本音だろう。 しかしこのわずかな期間に蒔いた種の数々が、翌年以降みごとな花を咲かせることになる。そんなわけで近年、再評価されつつあるのは嬉しい限りだ。

 

 

8位  山本昌、50歳で現役引退(平成27年)

 

昭和の最後に彗星のごとく現れた若きサウスポーは、平成の世を通して長らくドラゴンズに貢献し続けた。山本昌。不世出の大投手が数々の最年長記録を樹立し、遂にユニフォームを脱いだのが2015年。実に入団から32年の月日が経過していた。

 

スクリューという変化球を定着させたのも大きな功績だね

 

補足エピソード

山本昌といえば多趣味でも知られ、中でも90年代中頃から始めたラジコンはプロ並みの腕前を誇り、毎オフになると大会に参戦して表彰台に上がる姿がホームページ等で確認された。 山本昌のライバルというと松井秀喜や今中慎二と答えがちだが、真のライバルはラジコンでしのぎを削った鬼頭雅彦さんであることは知る人ぞ知るところである。

 

 

7位  ブルースリー爆誕(平成15年)

 

2003年春、球団はいまいち地味な山田政権への起爆剤として、井端弘和、荒木雅博、福留孝介で構成される1〜3番のトリオに愛称をつけて売り出すことを決めた。北海道から鹿児島まで2,253通もの公募の中から球団と3選手により選ばれたネーミングは“ブルースリー”

だが山田監督の「そうか、ブルースリーに決まったか。ちゃんと3人そろってくれるといいなあ……」という歯切れの悪いコメント通り、なんと開幕戦でいきなり1番福留、2番井端、3番立浪というオーダーを組み、敢えなく企画倒れに終わったのである。

 

補足エピソード

それでも諦めきれない球団は、6月17日に中日スポーツの一面を使ってアレックス、クルーズ、リナレスの助っ人トリオを“新ブルースリー”として売り出そうとするも全く定着しなかった。

 

 

6位  中日スカウト、鈴木一朗をスルー(平成3年)

 

お膝元の愛工大名電高校に凄い選手が現れた。その名は鈴木一朗。言うまでもなく後のイチローである。高校通算打率5割超という天才的な打棒で3年春のセンバツに出場するも、初戦で当たった松商学園のエース・上田佳範の前に5タコに倒れてチームも敗退。夏も地方予選で姿を消し、その名が全国に知れ渡ることはなかった。

 

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▲名電・鈴木の活躍を一面で報じる大本営(1991年7月31日)

 

しかし本人は物心ついた頃からの大の中日ファン。藤王康晴と小松辰雄に憧れ、ドラゴンズに入団することを夢に見た少年の願いを当時のスカウトは「線が細い」という理由でスルーしてしまう。世紀の大失態を犯したスカウト陣は上層部から大目玉を食らい、イチローが大ブレークを果たした年のドラフトでは山田洋、翌年は平田洋と2年連続で地元の逸材の上位指名に成功したのである。

 

成功……?した……?

 

 

5位 ナゴヤドーム移転(平成9年)

 

1988年、日本初の全天候型ドーム球場・東京ドームが開場した。時はバブル真っ只中。名古屋の政財界のお偉いさんが「東京に負けちゃおれんがね。名古屋に東京よりでっかいドームを作るでよ!」と言ったか言わずかは知れぬが、好景気に乗じて新球場の建造が決まり、東京に遅れること9年、1997年に遂にナゴヤドームが完成したのである。

だがファンにも街にも愛されたナゴヤ球場とは打って変わり、都市部や他県からアクセスが悪い無機質なナゴヤドームの評判はいまいち。おまけにボールパーク的な野球場としてのエンタメ性は一切考慮していない球場ゆえに、外野5階席の一部からはホームランが見切れてしまうなど問題を抱え、開場景気が落ち着いた頃からは空席が目立ち始めてしまった。未だに古参ファンからはナゴヤ球場を懐かしむ声が聞こえてくる。

 

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▲天井から水滴が落ちる演出は後の4DX映画館のヒントになったという

 

 

4位  10.8決戦 キク山田の怪(平成6年)

 

1994年10月8日。東海地方に住む子供達は、この日付を幼少期より鎌倉幕府の設立年号並みに叩き込まれて育つ。ただし、屈辱の日付として。

勝った方が優勝という大一番を迎えた名古屋の街は異様な空気に包まれていた。普段通りにしようとすればするほど落ち着きがなくなる。そしてそれは、ファンだけではなく選手や監督もそうだった。

長嶋監督率いる巨人が槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄という豪勢な一丁裏リレーを繰り出したのに対し、高木守道監督が先発の今中慎二に代えて送り出した2番手はまさかの山田喜久夫。しまむらのTシャツ並みの普段着野球松井秀喜、落合博満の前に打ち砕かれ、結局ドラゴンズは山本昌を温存したままこの大一番に敗れ散ったのである。

 

補足エピソード

この18年後、再び勝てば日本シリーズ進出の大一番に臨んだ守道監督。しかしCS4戦目、この日最大のチャンスに代打に送り出したのは絶好調の堂上剛裕ではなく、絶不調の山﨑武司。案の定、山﨑は三振に倒れ、またしてもあと1勝を取れずに巨人の優勝の目撃者になった。

 

 

3位  岩瀬1000試合登板(平成30年)

 

1999年4月2日、プロ初マウンドに立ったルーキー・岩瀬仁紀は集中打を浴びてノックアウトされた。だが、これがプロ野球史に輝く不滅の大記録への第一歩になろうとは誰が想像しただろう。

デビューから15年連続50試合以上登板のインパクト、しかも6年目からは負荷の大きなクローザーに転向し、そちらでも407セーブという驚異の金字塔を打ち立てた。近年、猫も杓子もレジェンドと呼ばれる風潮があるが、平成のドラゴンズでこの称号が与えられるべきは岩瀬を置いて他にはいない。その岩瀬が2018年、長いプロ野球の歴史で誰も踏んだことのない通算1,000試合目のマウンドに立った。愛知で生まれ、愛知で育った生粋の地元っ子は正真正銘のレジェンドとなったのだ。

 

補足エピソード

どんな質問にも丁寧に受け答えする岩瀬だが、「思い出したくない」と苦笑いして振り返る出来事もある。2000年の東海豪雨による愛車水没事件である。 9月12日、東海地方を前例のない大豪雨が襲った。予定されていた試合は当然中止。それどころか水害はナゴヤドーム内部にまで及び、特に地下駐車場は深刻な浸水に見舞われた。しかもスター達の高級車が並ぶ中でなぜか岩瀬のキャデラックが水没。 この事件と、2004年の風呂場で骨折事件は岩瀬の負の歴史として語り継がれている。

 

 

2位  球団史上初の“オレ流”黄金期到来(平成16年〜23年)

 

2003年9月、突然の山田監督解任により、にわかに新監督予想レースが盛り上がりをみせた。白井オーナーが提示した条件は「人気があり、チームを強くできる人材」。メディアはOB中心に予想を固め、トーチュウによるファン投票で支持率1位に輝いたのは谷沢健一。かと思えば10月に入って「野村克也に一本化」という報道が飛び込んでくるなど情報が錯綜する中、10月7日の中日スポーツが一面で正式に「落合博満氏に要請」と打ち出し、遂に決着をみた。

 

実は途中、高木守道に決まって会見場まで用意したんだけど……

 

白井オーナーの自宅に「高木を監督にしたらお前の家に爆弾を仕掛ける」という脅迫文が届いたり、高木の関与するゴルフ場が破綻したこともあってギリギリで流れたんだよな

 

脅迫文を送った人は黄金期の影の立役者だね

 

かくして誕生した落合監督は就任会見で補強凍結と現有戦力を10%底上げしての優勝を明言。しかし従来、FA等で大物にちょっかいを出してはフラれることに慣れていたファンや政財界からは反発の声が噴出。巨人が前例のない大補強に成功したこともあり、「補強なしで勝てるわけ無かろう」「やれるもんならやってみろ」の空気が流れる中で落合は適材適所の起用を駆使し、就任から1年後の10月10日、有言実行のリーグ制覇を果たしたのである。

ここから退任までの8年間で4回のリーグ優勝と5回の日本シリーズ出場。万年2位と揶揄されたドラゴンズに初めての黄金期をもたらしたのだった。

 

ところが連覇を成し遂げた2011年限りで球団から解任を通告され、ドラゴンズは自滅の道へと突っ走ることになる

 

結局、いつの時代もこの球団にとって大切なのは野球の成績よりも社内政治なんだね

 

そして栄えあるドラゴンズ平成31年史のトップに輝く大ニュースは、これだ!

 

 

1位  山﨑武司スパイク事件(平成12年)

 

2000年のオープン戦のある試合。山﨑武司はスパイクを忘れるという痛恨のミスを犯す。だが当時の監督は星野仙一。正直に「スパイクを忘れました」などと言ってしまえば殺されかねないーー。

恐怖に慄いた山﨑は、咄嗟に嘘をつく。「今年はこのスタイルで行くんです」。宿題を忘れた小学生並みの言い訳。だが当時、バリバリの主力の山﨑が敢えてそう言うならと嘘はあっさり受け入れられ、シーズン通して山﨑は嘘を成り立たせるために、試合でも練習用の運動靴を履き続けたのである。

 

面白いのはここからだ。スパイクを履かないせいで下半身に踏ん張りが効かなくなりホームランが打てなくなった代わりに、腰の回転と手首の返しで流し打ちをすることを覚えた山﨑は、この年リーグ7位の3割1分1厘(18本)を記録。誰も期待していなかったアベレージヒッターとしての才能を開花させたのである。

だが高打率を引っさげて臨んだ契約更改では「おみゃあに打率は期待しとらんわ。ホームラン打て、たわけ」と一蹴され、激怒した山﨑は「じゃあ打率なんか捨ててホームランだけ狙ったるわい」と開き直り、翌シーズンは2割3分8厘25本51打点という実に山﨑らしい成績を記録。しかし「お望み通りホームランを増やしてやったぞ」と臨んだ契約更改で「打点の低さが最低だ」と指摘され、遂に堪忍袋の尾が切れた山﨑は国内FA権の行使を宣言、熱心な誘いを受けて横浜ベイスターズへの移籍を決めたのだった。

 

補足エピソード

一度は横浜移籍を決意するも、山田新監督の慰留に応えて結局は残留。しかし一年持たずに山田監督との関係は瓦解し、自らの申し出でオリックスへ移籍。だが移籍先でも伊原監督と大ゲンカするなど、この時期の山﨑は触れたものは全員切りつけるナイフのような危うさがあったのだ。

 

仏のような今の姿からは想像もできないよね

 

予告

 

とてもベストテンにはまとめられないほど様々な出来事で彩られた我がドラゴンズの栄光の歴史。

第2弾はそんなドラゴンズの出来事を毎日伝え報じてきた中日スポーツの31年間を振り返ってみるぞ。ただしここから12連戦を挟むため、更新は令和になってから。たぶん今まで誰も試みてこなかった独自の切り口だと思うので楽しみにしていて欲しい。