ちうにちを考える

中日ドラゴンズを浅く薄く考えます

体罰の罪を考える

 

埼玉県の春日部共栄高校で起きた監督による平手打ち問題や都立高校で起きた教員による暴行問題に端を発して諸所で体罰の是非が取り沙汰されている。

昨秋の関東大会で準優勝し、センバツ出場が確実視されている春日部共栄の監督が昨年4月の練習試合中、部員に平手打ちなどの体罰を与えた問題。この件に関して中畑清氏がスポニチに寄稿したコラムの内容があまりに本質から逸脱していると批判に晒されている。

 

ただ…。暴力は絶対に許されない時代と分かっちゃいるけど、どこか解せない部分も残ってる。

 駒大の終身名誉監督になった太田誠さんと佐々木さんはともに監督を35年間務められた。お二方とも今なら間違いなく「パワハラ」と認定される熱血指導。逃げも隠れもせず、ご自身が認めている。佐々木さんの会では教え子代す表であいさつした現阪神の山崎憲晴の言葉が胸に刺さった。

 「DeNA時代の中畑監督もおられますが、私の野球人生で監督と言えるのは佐々木監督しかいません。平手打ちもげんこつも受け、土に埋められもしましたが、今となっては財産です

 要は受け手がどう感じるか。佐々木さんの会には約1200人が参加。憲晴のように感謝している教え子がそれだけいるってことだよ。

1月22日 スポニチアネックスより

 

この内容を読んだほとんどの方が違和感を抱くのではないだろうか。それもそのはず。中畑の主張は残念ながら体育会系の独りよがりな身勝手さを分かりやすく露呈していると言わざるを得ないからだ。

いわゆる体罰を受けて育ったプロ選手は口を揃えて「財産」だと言う。だが知っての通り何万、何十万人というスポーツ競技者の中からプロの道に進めるのはごく一握りの中の更に一握り。いわばスポーツというカテゴリにおける圧倒的なエリートたちが美化した「財産」に思い出話以上の価値はない。

彼らがプロになれたのは、あるいはプロで通用したのはあくまで恵まれたフィジカルとそれを生かすための努力の賜物であり、そこに暴力が介入する余地はないはずだ。仮にスポーツでの成長に暴力が不可欠と言い張るなら、体罰が問題視されるようになり教育現場での体罰が事実上禁止となった今もなお、世界で活躍する日本人選手が競技問わず現れるのはどういう訳なのか、プロ野球のレベルが向上の一途を辿っているのは何故なのか、体罰の有用性を是非説明してみて欲しい。

 

愛という名のもとに

 

体罰を論ずるにあたって重視すべきは少数の勝者達の思い出話ではなく、体罰に嫌気がさして競技から身を引いてしまった数え切れないほどの名もなきスポーツ部員達の意見であるべきだ。

多くの少年少女は最初から高い志を持って運動部に加入するわけではない。小学生なら習い事の一環として、中学生なら部活が必修で仕方なくというケースがほとんどだろう。その時に沢山ある部活(小学生ならスポーツ少年団)の中から選ぶ基準になるのが「好き」という気持ちだ。野球を観るのが好きだから、テニスを観るのが好きだから自分もやってみたい、そんなささやかな好奇心を抱いて入部してみた子供達が、殴る、蹴るが当たり前、ミスをしようものなら人格否定の罵声が飛んでくる現場を目の当たりにして、果たして「好き」でいられるかどうか。

 

加害者側はいつも「愛のある指導に耐えられない軟弱者は最初からいらない」と嘯(うそぶ)く。被害者側の弱さに問題があるのだと。「愛」は体罰に限らず他者を圧力で支配する者の常套句だ。我が子を虐待して逮捕される輩は決まって「教育のつもりでやった。虐待じゃない」と言うし、職場のパワハラ上司は「愛のある指導のつもりが伝わらなかった」と自分を正当化したがる。言うまでもなく暴力は犯罪だが、「愛」という名のコーティングで包めば通用すると思い込んでいる欺瞞。傷付く者が1人でも出てくれば、それは教育ではなく単なる自己満足に過ぎない。

 

また体罰を乗り越えて加害者を「師」と仰ぐ人達の裏には、体罰が原因で競技を辞めた何十倍、何百倍という人達の苦しみが隠れている事を忘れてはならない。上述の駒大のOBパーティの話題にしても、中畑は「要は受け手がどう感じるか」と書いているが、そもそも体罰に耐えかねて野球を辞めた部員はパーティには出席しないわけで、「どう感じるか」を主張する場所など与えられない。極端な話、麻原彰晃を慕う元オウムの信者だけで当時を振り返らせれば「世間では色々言われてるけど私は麻原尊師のお導きで大きくなれた!感謝しかない!」と言うに決まっているのだ。

スポーツという分野の性質上、どうしても勝った者の声が取り上げられやすいのは間違いない。だが体罰を社会問題として捉えるなら、やはり汲み取るべきは一部の勝者ではなく、脱落していった大多数の“敗者”の声であるべきだ。

 

「価値観の転換」が難しいのは分かるが……

 

体罰が一向になくならない原因のひとつが「自分達も体罰を受けて育った」というものだ。昔の運動部は体罰が当たり前。それを大人に「愛」と粉飾され、「耐えろ」と命令されれば子供は自然と「そういうものか」と納得してしまう。それでも耐えかねて脱落すれば軟弱だと罵られ、被害者も自身の弱さに負い目を感じて自分自身を責める事になる。体罰とは支配する側が1ミリたりとも傷つかないように出来た巧妙な洗脳術なのだ。

今の40代より上はこの洗脳をゴリゴリに浴びて育った“体罰が当たり前の世代”で、中畑のように「解っちゃいるけど体罰を完全否定はできない」というスタンスを取る場合が多い。体罰を否定してしまうと自分達の生きてきた環境を否定するに等しいからだ。人はそう簡単に価値観を変えろと言われて変えられるものではない。だが体罰は一人の人間の未来を狂わせる凶器にもなり得る事に目を逸らさず向き合えば、そう簡単に行使できなくなるはずだが……。

 

星野仙一という体罰界のカリスマ

 

中日ファンが体罰問題と向き合うにあたって避けて通れないのが星野仙一の存在である。テレビ中継では選手のミスに激昂してベンチを蹴り上げる姿が当たり前のように映し出され、裏話では選手の顔が変形するほど殴ったとか、ガラスの灰皿を全力で投げつけたなどという逸話が美談として持ち上げられる。被害を受けた山本昌、山崎武司、中村武志、そして与田剛監督も当時を懐かしそうに振り返り「星野さんには愛があった」と口を揃えて言う。その意味では90年代の名古屋は日本で最も体罰が公然と行われ、また指導法の一環として受け入れられていた土地なのかもしれない。

今年からドラゴンズの監督に就任した与田は「星野流は今の時代通用しない」と公言しているので今後ドラゴンズのチーム内で体罰が行われることは無いと信じたいが、もし万が一、それらしい噂が漏れ伝わってきた際にはファンとして敢然と監督の解任を要求したい。

 

プロを頂点にして地域の少年団に至るまで根強く浸透した体罰という闇を取り払うには、やはりまずプロが手本として率先して体罰根絶を目指すべきだ。その意味では文句なしのトッププロでありながら、体罰に対して厳しい意見を積極的に発信しているDeNAの筒香嘉智は非常に頼もしい。「殴られなくても筒香になれるんだ」「殴らなくても筒香は育つんだ」。地道だがそうした意識を指導者と子供達に根付かせる事だけが体罰根絶に向けた唯一の道だろう。

 

最後に、兼ねてから体罰根絶を訴えるタレントの武井壮が以前こんなツイートをしていたので紹介しよう。

 

「スポーツ教えるくらいの事で大人が子供殴っていいわけねえだろう。よく考えろ本当に、街で大人が子供殴ったら即通報で逮捕だよ。それが『スポーツ教える』が乗っかったくらいでチャラどころか『素晴らしい指導』になる訳ねえだろう。スポーツやってたらなんかいい事してるみてえな空気で正当化するなよ」
 

自身もバリバリのアスリートとして沢山の体罰を目の当たりにしてきたであろう人物の言葉は重い。