ちうにちを考える

中日ドラゴンズを浅く薄く考えます

あの夏、松坂大輔は国民的ヒーローだった

 

1998年にまだ子供だった人達や、ましてや生まれてなかった人達にはなぜ世のおじさん達が「マツザカ、マツザカ」とこんなに騒いでいるのかがいまいちよく分からないのではないだろうか。

いや松坂大輔の凄さ自体は毎年夏になるとあのPL戦と決勝戦のノーヒットノーランが繰り返し繰り返し「あの夏の真実」「当事者たちの証言」とかいってあらゆる媒体で食傷気味なほど回顧されまくるので嫌でも知ってるとは思うが、知識としてではなく感覚として松坂大輔の特殊な人気を理解するのはやはり当時を知ってないとなかなか難しいと思う。

我々が力道山の特殊性にピンと来ないように、8時だヨ!全員集合の何がそんなに凄かったのか分からないように。「戦争を知らない子供たち」ならぬ「松坂を知らない子供たち」に伝えたい。あの夏、松坂大輔は国民的ヒーローだった、と。

 

1998年夏。俺たちは中学生だった

 

暑い夏だった。来るぞ来るぞと言われていた「異常気象」がいよいよ姿を現したかのように6月半ばから30度を超え、汗だくで部活を終えてチャリをこぐ。ちょうど4月から入学した中学校生活にも慣れ始めた時期だった。Windows95のブームなんかがありながらも当時まだインターネット回線を引いている家庭なんかクラスに2,3人しかいなくて、どうやらエロい写真がインターネットで見られるらしいぞと聞きつけた男子数人で数少ないネット環境のあるクラスメイトの家に集まり、まだ回線も貧弱なもんだから画像1枚につき表示されるのに30秒くらいかかるのを棒アイスなんかくわえながら固唾を飲んで見守ったりして。学校では「GLAY派かラルク派」か、「寛子派か絵理子派」か、いやいや俺はイエモン派で多香子派だとか言って盛り上がってた、そんな時代。

他愛もないバカな毎日を送りながら、中学に入って初めての夏休みがやって来た。そうして8月6日、総理大臣が小渕恵三になり、和歌山毒物カレー事件の報道が過熱する真っ只中に始まった第80回夏の甲子園。この大会が伝説になるなんて、まだ知る由もなかった。

 

あの夏は松坂大輔の夏だった

 

大会が始まった当初は松坂大輔はさほど騒がれていなかった記憶がある。春のセンバツ大会の優勝投手とは言え、2月に長野冬季五輪が盛り上がり、6月にはサッカーW杯フランス大会に日本代表が初出場を果たした年とあっては野球は二の次という扱いだったのだ。

そういう意味では地方予選からニュースを一人占めしていた2015年の清宮幸太郎のが注目度は高かったかも知れない。その松坂が一気にクローズアップされたのが2回戦の鹿児島実業戦。鹿実のエースは1回戦で八戸工大一をノーヒットノーランに抑えた杉内俊哉である。早くも実現した大会屈指の好投手同士の投げ合いは松坂自身の2ランもあって5安打完封。「5安打されたから100点じゃなくて95点です」とはにかむ松坂の笑顔に日本中がやられた。続く星稜も完封し、メディアの注目が一気に集中する。奇しくもプロ野球では横浜ベイスターズが38年ぶりの優勝へとひた走っていた。「プロ、高校の横浜ダブル優勝だ-!」。筋書きは整った。だがここから松坂は筋書きのないドラマを描いて行く。

 

準々決勝の相手は強豪・PL学園。事実上の決勝戦とも言える東西横綱対決は追いつ追われつの展開で延長17回、3時間37分の激闘の末に横浜に軍配が上がる。250球完投勝利。2日間連投で合計398球を投じれば、さしもの松坂も「明日(準決勝)は投げません」と話すほどに疲れ切っていた。

翌日の準決勝の相手は明徳義塾。松坂を温存して戦うも8回表が終わった時点で0-6の劣勢。だがここから奇跡は起きる。2番手で力投した2年生の斎藤弘は言う。「松坂さんを決勝のマウンドでもう一度投げさせたいというみんなの思いがひとつになった」。8回裏、4安打を集めて4点を返し、9回表のマウンドに上がったのは満を持して松坂。地鳴りのような大歓声。もう誰も横浜を止められない。明徳打線を15球で簡単に抑えたエースの投球に、チームがひとつになる。その裏、同点に追いつくと、最後は柴武志(3年)の中前打でサヨナラ勝ち。柴はこう思って打席に立ったと言う。「松坂を休ませてやりたい。延長戦だけは絶対嫌だ」。

もう何が起きてもおかしくない。連戦に次ぐ連戦を奇跡的に勝ち抜いて来た横浜にとって決勝の京都成章は、もはや敵ではなかった。前日、休養日になるはずが思わぬ展開で9回に急遽15球を投げた松坂だが、18歳の怪物にとっては休養充分に等しかったようだ。5万5000人の大観衆が松坂の一挙手一投足に注目する。沸き起こる「マツザカ」コール。ノーヒットノーランまであと一人。「ここまできたら三振で決めてやる」。最後は得意のスライダーで空振り三振を取り、松坂は、いや1998年の横浜高校は伝説になった。

 

松坂大輔は悟空である

 

こうやって松坂はひとつの大会の中で1試合ごとにドラマを描き、たった2週間で国民的な注目を集めるスーパースターになった。今年の吉田輝星(金足農)も似たような段階を歩んだが、やはり決勝戦でノーヒットノーランという偉業を成し遂げた松坂は別格だと言える。

間違いなく高校野球史上最高の投手でありながら、怪物というにはあまりに可愛げのある“はにかみ笑顔”も松坂の魅力だ。パーフェクトヒューマン・イチローにはない等身大の人間味。2006年のWBCの練習中にそのイチローから「深いところで野球なめてるだろ」と指摘されても、いたずらっぽくヘラヘラしてたのがいかにも松坂らしかった。誰もが認める超一流投手なのに、近所の気のいい兄ちゃんっぽさも持つ男。それが松坂大輔である。

 

漫画でいえば「ドラゴンボール」の孫悟空。北斗ケンシロウほど悲壮感はなく、桜木花道ほどおちゃらけてもいない。裏表のない誰からも愛されるキャラクターはまさに国民的ヒーロー。ベジータやピッコロがそうであるように、同世代の選手達は皆、松坂の背中を追いかけて強くなっていった。

ライバル・杉内俊哉が引退会見で語った言葉がそれを物語る。「彼をずっと追い掛けてきた同級生はいっぱいいる。僕もそう。彼が同級生のレベルを上げてくれた」。

 

挫折する姿すらもヒーローだった

 

「ドラゴンボール」でいえば高校時代の松坂がコミックス14巻までの少年期なら、プロ入り後は「Z」が付いてからの青年期か。西武に入団した松坂は凄まじい期待を背負いながら高卒1年目で15勝をあげて最多勝を獲得する。イチローとの宿命の対決、松坂を上回る活躍をする戦慄の新人・上原浩治の登場、清原和博に打ち砕かれた日本シリーズ。あの頃のプロ野球は松坂を主語にして語ることができた。

強力なライバル達との死闘をくぐり抜けた松坂は幾度かの怪我に苦しみながらも日本を代表するエースへと成長し、2007年に夢だったメジャーリーグへと飛び立った。そこで待っていたのは少しの栄光とたくさんの挫折。怪我と年齢による衰えのダブルパンチを食らい、かつて誰もが憧れた躍動感ある投球フォームは影を潜めた。日本復帰は大型契約を提示したソフトバンク。だが3年間で投げたのはわずか1試合。容赦ない批判を食らいながらもがき苦しむ松坂は誰の目にも明らかにもう限界だった。

 

それでも野球をあきらめず、現役にこだわる松坂の姿に、かつてあの夏を目撃した人達は心を打たれた。あれから20年間、なんの悩みもなく順風満帆に生きてこられた人がどれだけいるだろう。誰もが皆、多かれ少なかれ挫折や悩みの中を駆け抜けてきたのではないだろうか。それはあの夏、国民的ヒーローだった松坂大輔も例外じゃない。無敵だったあの夏のヒーローは今、満身創痍でボロボロになりながら戦っている。松坂とは平成を駆け抜けた日本国民そのものなのだ。

砂を噛むような毎日にうんざりする事があっても、20年前と同じように松坂はまだマウンドにいる。そう思うだけでまだ頑張れる。そうやって自分を重ね合わせて勇気をもらえる存在。それが松坂大輔だ。

 

少々熱っぽく語ってしまったが、少しでも当時の熱狂や松坂への思い入れが伝わったなら嬉しい。

再び背番号「18」を背負う事になった松坂は、平成と新たな時代をまたぐ2019年のシーズンにどんなドラマを見せてくれるだろう。

物語は「GT」へと続く。

 

あれは黒歴史だからやんなくていいぞ