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与田を読む 6冊目

「消えた豪速球 157キロで駆け抜けた直球人生

 

新監督・与田剛を知りたくば著書を読め!

 

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「消えた豪速球 157キロで駆け抜けた直球人生

2001年7月1日発刊 KKベストセラーズ

 

 

簡単な書評

 

これぞ与田剛関連書の決定盤!白井オーナーも本書を読んで監督要請を決めたとか。

他の本と同じく生い立ちから引退までの半生を記した自叙伝だが、引退直後の作品という事もありまだ現役の熱量が冷めきっていないのが本書の特徴だ。のちの本では数行でサクッと済ましているエピソードも本書では当時交わされた会話などが事細かに書かれていたりする。

 

4球団を渡り歩いた苦労人なのでその都度出会ってきた人間の数も多いのだが、与田が素晴らしいのは誰一人として悪く書いていないところだ。全ての出会いに意味を見出して感謝し、糧にする。これだけでも与田の実直で真面目な人柄がうかがい知れる。

 

野球選手の本の中には嫌いな人への愚痴と悪口が目立つものもある。こういうところに人間性が表れるんだね

 

 

苦労人が歩んだ道程

 

プロ野球の監督にまで登りつめる人間は、やはり現役時代からスターないし一流プレーヤーである場合がほとんどだ。

特に講演やメディア出演で忙しいような人は、ヘタに監督を引き受けるよりも稼げて気苦労もせずに済むので現場復帰のオファーを断る事もあるようだ。

その点でいえば与田は苦労人だ。ドラフト1位で入団するも活躍したと言えるのは1990,1992年の2年だけ。残りの9年はリハビリ、トレード、入団テストなど泥水をすすりながらのプロ生活を送った。

 

推定年俸も4年目の3,500万円がピークで、そこから8年連続ダウン提示を食らってユニフォームを脱いでいる。阪神で迎えたラストイヤーの2000年には大阪のマンションで単身赴任をする経済的余裕もなく、球団に無理を言って月5万円の独身寮に住まわしてもらったという。

翌年には野球に携われているかどうかすらも不透明な中、野球を続けたい一心で入団テストまで受けて現役にすがりつく姿は「リストラの星」として当時共感を呼んだ。

 

そんな選手が解説者として見識を広げ、WBCのコーチに抜擢され、遂には中日の監督にまで登りつめた。故・星野仙一に可愛がられた事で仕事に困らなかったのも確かではあるが、それだけでここまで辿り着けるわけもあるまい。

今回の監督就任にあたって本人名義の5冊と弘子夫人による1冊の計6冊を読了して、与田剛という男は人との出会いを大切にする「人柄」と、不思議と縁が広がっていく「運」の持ち主である事を強く感じた。

 

 

22年ぶりの中日復帰!さあ優勝だ!

 

中日生え抜きと言っても在籍したのは6年半。特に若いファンにはいまいちピンと来ないのも当たり前だが、そういう方にこそ1996年にロッテにトレードされた際の心境を本書から抜粋して紹介したい。

 

 ぼくには、ドラゴンズに骨を埋めたいという気持ちがあった。背番号29、ドジャースモデルのユニホーム、濃紺のドラゴンズカラー……。ぼくはドラゴンズのユニホームが大好きだった。そのぼくがドラゴンズを去る。頭の中が真っ白になった。頭の中にはいままでのことが走馬灯のように思い浮かんだ。

 プロに入ったときの一番の目標は優勝だった。一年目、活躍したときには優勝できなかった。二年目、優勝争いをしているときには故障で投げられなかった。優勝を目標にやってきて、優勝をかけた戦いに参加できなかった。それがもう、ドラゴンズでは不可能になる。ショックだった。

148頁より

 

22年前に「不可能になった」ドラゴンズでの優勝を今度は自分の手で掴む時が来たんだね

 

こうなる事が運命だったかのような巡り合わせを感じるよ